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2006年7月14日 (金)

関八州に覇を競う(北条早雲の系譜 )1

Photo_19 <北条氏の興亡>
日本の戦国時代に、一介の素浪人から身を起し、梟雄と称せられ、一国一城を切り取った代表選手に、
前期には
北条早雲、中期には斎藤道三、晩期には藤堂高虎がいる。
中でも、戦国下克の世の中に、魁として現れた
早雲が、時の世の風潮を決定付けて行った。

唯、
早雲は他の二人と比べ、一介の素浪人では無かった様だ。
一説によると、その出自は足利将軍家の重臣、伊勢氏の嫡流だと云う事だ。
左も有りなん。 駿河の今川家に知古を得て、伸し上って行く様は、幾ら幕府の権威が弱まっていたとしても、常識では考えられない。

とまれ、
早雲、伊勢新九郎長氏が世に踊り出たのは、五十代半ばを過ぎた頃であった。
若い頃は京において将軍家で働き、年老いて関東に下り、今川家の領地の一角を授けられるや、
伊豆を攻めて、一国を得た。
それからの目標は、関八ヶ国の奪取に全精力を傾ける事になる。
多分、彼の想いは、京の室町幕府は腐っても鯛、そんな簡単に倒幕出来るとは思えないし、
亦、京に弓引けば、主に対する反逆になる。
それよりも、関東に覇を競えば、数カ国は握れると思っていた様だ。
以後、五代に渡って
北条氏は、関東に君臨したのである。

二代
氏綱は、早雲が死去する一年前に、
家督を相続し、姓を伊勢から
北条に改めた。
多分に、坂東武者に溶け込むべく、鎌倉時代の執権・北条氏を意識したものだろう。
元々、武士の起こりは、関東で(いざ 鎌倉!)の精神に同調の想いもあったのだろう。

三代
氏康こそ、祖父の血を最も引き継ぎ、領国を次々と広げて行った。
普通、三代目は家を潰すと云われるが、彼は正反対の知将であったのだ。

四代
氏政は、流石に、時代の変化を読み取れなかったのは否めない。
俗に云う(小田原評定)で、自身の指針を示す事が出来ず、弟の
氏照と共に、自刃して果なければならなかった。

ここに、戦国時代も終焉し、関東に覇を唱えた
北条家も、滅び去ってしまうのである。
氏政・氏照の首と引き換えに、命永らえた五代氏直は、高野山に流されたが、その子孫が、秀吉の代が終わり、徳川時代になってから、河内狭山に数万石の知行に取り立てられて、家を残したと云う事だ。

以後、この
北条氏が、戦国の世に興り、戦国の世に滅び去った、百年のドラマを見て行こう。

<新九郎始動す>
応仁元年(1467年)、戦国の世の序章である応仁の乱が始まった。
時の公方・足利義政八代将軍は、政事に失望し、変わって正室の日野富子が、表舞台に立って来た。
兄・義政に子がなかったので、仏門に入っていた弟の義視を還俗させ、次の将軍に指名していた。
先祖代々、足利家の重臣を務めて来た
伊勢新九郎は、義視に従い、
混乱の京を逃れて伊勢に下っていた。

そんな折、義政に富子との間に子が出来た。
後の九代将軍・義尚である。
義視の立場は微妙なものとなった。

新九郎は、独特の感覚で、義視の元を去る決意をした。
時に
新九郎、齢三十七。

幸い、数年前には、
新九郎の妹・北川殿が、駿河の太守・今川義忠の室に納まっていた。
その妹から、今川家の援を請う要請が届いていた。

当時、
新九郎には直属の家臣を持たない。
義視に付き従っていた、伊勢の国人六人に語らった。

「遠く唐(カラ)の国では、三国志と云う物語りがあった。 国を興す為、桃源と云う処で三人語らい、内一人が国主になれば、他の二人はその臣下となって、生涯をまっとうすると云う、義兄弟の契りを結んだ。 劉備、関羽、張飛の話だ。」
おもむろに
新九郎が語りだした。

「いい話だ。」山中才四郎が云った。
荒木兵庫も頷いている。

「どうだ、俺達もこの故事に習って、契りを結ばないか。」
「つまり、この内一人が国守になれば、他の六人は、その家来になると云う事だな。」と大導寺太郎が応じて来た。

「その通りじゃ。」
「なるほど、それは面白い。」と荒川又兵衛・在竹兵衛・多目権兵衛も身を乗り出した。

「我等六人、今は流浪の身じゃ。 どうせ生きるなら、それも一興。」山中才四郎が皆を促した。

「よし、決まりじゃ。 では、伊勢神宮に詣り、神水を使って、誓いを立てようぞ。」
ここに、伊勢衆七人の一団が出来上がった。

「先ず手始めに、駿河へ下ろう。 仕官の手筈は付いておる。 いや増して、天下一の富士が拝めるぞ。」
「おお!」
皆、旅立ちの気勢を挙げた。

駿河に入った一行は、早速、当主の今川忠義に迎えられ、妹の北川殿と幼少の竜王丸(後の氏親)に面会した。
「兄者、ようこそお越しなされた。 これが竜王じゃ。 ささ、顔を観てあげて下され。」
「そこもとも、達者で何よりじゃ。 おーおー。 竜王丸様、未来の太守様、早く大きくなりなされ。」

さて、滞在する事数年・文明八年(1476年)、何と、当主の忠義が、あっけなく討ち死にしてしまった。
幼い一子を残し、ご多聞に漏れず、今川家の御家騒動の勃発だ。

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