トップページ | 黒田武士(節)2 »

2006年5月12日 (金)

黒田武士(節)1

秀吉の無謀な文禄の役が終わり、伏見城内に居を構えていた福島正則の元に、かの地で世話になったとて、黒田長政の遣いとして、母里太兵衛なる人物が、遣わされた。豪猛で鳴る正則と黒田長政は、不思議と気が合った。此処に、天下の名槍「日ノ本」が在る。
正親町天皇より将軍・義昭に下賜され、更にそれが信長に譲り渡され、そして、信長から秀吉の手に渡った。
織田家中で信長の死後、天下取りの争いが起こった時、柴田勝家と雌雄を決する戦・餞ヶ岳の戦いにおいて、加藤清正らと並び、先陣七人槍の一人に数えられる獰猛果敢な福島左兵衛大夫正則が居た。
正則はそこで名を馳せ秀吉から大名の一角に加えられた。
尚且つ、「その功、秀逸である。」との、秀吉のお褒めに預かり、何と、「日ノ本」を拝領したのである。
だから今、この名槍は、福島正則が自慢の所蔵品である。
この当時、秀吉の名参謀にして心底恐れられた黒田如水が一子・長政とは、数少ない親友であった。
長政は豊前中津の領主である。何故か正則とは馬が合い、誰にでも直ぐ突っ懸かる正則が長政だけには、気を許していた。
黒田家は、もし、時代が捻れていなければ、天下の権を握ったかもしれない。
官兵衛如水は、秀吉の知恵袋にして竹中半兵衛と共に諸葛孔明に凝らせられ、家康に比するべく恐れられた人物であった。
事実、関ヶ原の戦が起こった時、如水はその智謀を以って九州一円をほぼ手中にしたのである。
その血を引く長政も、手腕に長けた人物であった。家康に依って改易お取り潰しにあった大名は、福島正則など多数いるが、黒田の家は、巧みに永らえたのである。その黒田家
の重臣に、母里太兵衛が居た。
沈着篤実な人物で、戦場での働きは云うに及ばず、同僚・配下に接するも情を良く弁える武士で有った。
官兵衛ある処、常に
太兵衛がおり、長政の脇には太兵衛が控えていた。
さりながら、
太兵衛には大きな欠点が有った。稀に見る酒豪であり、酩酊した時には見境が付かなくなる事であった。それとて、今まで大事に至らなかったのは、その人格にも因るが、奥方の配慮に因る処も大きかった。
如水も長政も、そんな
太兵衛を愛で重用していたのは云うまでも無い。

或る日、長政は太兵衛を呼んだ。
太兵衛が伺候すると、「近こう寄れ。」「はっ」
「此度、伏見へ使いして貰いたい。正則殿へ書状を届けて貰いたいのじゃ。」
「畏まりて御座りまする。」

「ついては、そちも存じおろうが、正則殿は名うての酒豪で強引な御方じゃ。
そちとて、酒と聞けば目が無い方であるな。」とて、ニヤリとした。
「ははっ、仰せの通りに御座りまする。」
「ついては、此度の一件、そちには気の毒では有るが、正則殿がいくら勧めても、一滴も口にするでない

ぞ。そちが五合や一升浴びたとて、酩酊する筈は無いが、此度だけは我慢しておけ。」
「畏まりました。きっと、承りました。」と面を引き締めて応えた。
「そう悲壮な顔を作るな。帰ってきたら、好きなだけ飲ませてやるわい。」
「滅相も御座りませぬ。この
太兵衛、悲壮な顔なぞしておりませぬ。殿の
御前の御酒など、幾ら頂いても酔えませぬ。」
「ははは、是は負けたわ。」

翌早朝、安芸に向けて、西国街道を馬上にする太兵衛の姿が有った。
懐には書状を、徒歩の者数人引き連れて、泰然自若たる面持ちであった。
初日は、吉田の宿に荷を解いた。
供の者には、酒肴を施し、自身は此処から酒を断った。供の者は不思議がりながらも、「うちの殿様が御酒を戴かれないのは、不思議な事があるものよ。」とて、初日を終えた。

太兵衛は酒の代わりに、悠然と謡曲を舞った。
長政の顔が浮かんでは消える。
妻の顔が消えては浮かぶ。時折、正則の顔がチラリと浮かんだ。

|

トップページ | 黒田武士(節)2 »

コメント

豊城です。関ヶ原の役を考える時、黒田如水は西の重要な人物です。私も興味をもっています。如水の動向など詳しく書いていただけないでしょうか。加藤清正などのことも含めてお願いします。

投稿: ikimono01 | 2006年5月12日 (金) 13時54分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トップページ | 黒田武士(節)2 »